北海道立近代美術館

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エコール・ド・パリ

当館が北海道立の「新美術館」として開館準備中の1973(昭和48)年、「ローカリズムと国際性を基調とした総合的な近代美術館」にふさわしい作品を系統的に収蔵するという方針が、新美術館収蔵計画策定協議会によって示された。この「国際性」の実現に向けて開館前後から力を入れてきたのが、海外のガラス、ヨーロッパ版画、そしてエコール・ド・パリの収集である。
エコール・ド・パリ(パリ派)とは、1920年代半ばから、パリで活動する同時代の外国人画家たちの総称として用いられるようになった言葉。当館ではパスキンを中心にシャガール、フジタ、キスリング、スーチン等フランス国外出身の画家たちの他、ドラン、ローランサン、ユトリロ、エルミーヌ・ダヴィッド等のフランス人画家たちも加えてコレクションを形成してきた。

よき時代のパリの香気を伝える、人間味あふれる芸術、エコール・ド・パリ。こうした魅力に加えて、近代美術研究の領域においては、画家たちの民族的背景や、両大戦間の政治・社会的動向との関係性についての実証的研究が進んでおり、当館でもそうした動向に注目しながら、作家・作品に秘められた世界のさらなる深掘りに取り組んでいる。

令和4年3月末現在、「エコール・ド・パリ」の収蔵作品数:308点

ジュル・パスキン《花束をもつ少女》

ブルガリアのヴィディンに生まれ、異邦人としての生涯を送りながら、人間へと鋭い視線を向け、45歳で命を絶つまで描き続けたエコール・ド・パリを代表する画家。パリへ出たのは1905年で、それまではウィーン、ミュンヘン、ベルリンと各地の美術学校で学び、当時人気の風刺雑誌『ジンプリツィシムス』の素描家としても活躍した。パリでは、モンマルトルやモンパルナスを根城に日夜カフェに通う一方、娼婦やモデル、友人らを描いた。1924年頃からパスキンの油彩はひとつの典型を生むが、それは、淡く透明な色調と繊細な線描で少女や若いモデルをエロティシズムやメランコリーを込めて描く、“レザネ・ナクレ(真珠母色の時代)”と呼ばれる様式の始まりであった。
本作もその特色をよく示すもので、不安げな表情で腰掛ける少女が煙るような色彩のなかから浮かび上がっている。

ジュル・パスキン 1885-1930 《花束をもつ少女》 1925-26年 油彩・キャンバス 80.0×64.0cm 右下にpascin  購入(昭和53年度)

アメデオ・モディリアーニ《フジタの肖像》

イタリア、リヴォルノのユダヤ人家庭に生まれた。ヴェネツィアで美術を学んだ後、1906年パリへ出た。初期には彫刻も手がけたが、肉体の限界から絵画制作に専念。縦に引き伸ばしたようなフォルムをもつ独自の造形美と、深い憂愁をたたえた人物像を多く描くも、しだいに酒や薬に身体を蝕まれ35歳で世を去った。
本作は親交の深かった画家、藤田嗣治を描いたデッサン。鉛筆の簡潔な線描により、モデルの体つきやポーズ、おかっぱ頭にちょび髭を生やした親友の風貌がよくとらえられている。画面下方には藤田の手により、フランス語で「モディリアーニによる私の肖像」と書き添えられており、二人の画家の交友をうかがわせる。藤田は終生このデッサンを大切にしていた。

アメデオ・モディリアーニ 1884-1920《フジタの肖像》1919年 鉛筆・紙 48.5×20.0cm 画面中央下端にMon Portrait par Modigliani Foujita 1919. 受贈(平成22年度、一般社団法人北海道美術館協力会)

アンドレ・ドラン《マルティグ風景》

パリ郊外シャトゥーに生まれ、1898年からパリで本格的に絵画を学ぶ。マティスやヴラマンクと出会った後、次第に原色を用いた作風に移行、フォーヴィスム運動に加わった。その後一転してキュビスム運動に加わり、第一次世界大戦以降は古典的で静謐な写実的作風を確立した。
本作は、ドランの比較的短いキュビスム時代の貴重な作例。マルティグは南仏マルセイユの西に位置するベール潟沿いの街で、石油の積み出し港として知られる。空や山、家、木などを思わせる形態が複雑に組み合わされ、抽象絵画に近い純粋な造形性が追究されている一方、フォーヴ時代の力強い色彩表現も見られ、過渡期のドランの作風がよく示された秀作である。

アンドレ・ドラン 1880-1954 《マルティグ風景》 1908年 油彩・キャンバス 100.0×81.0cm 右下にa. Derain 購入(昭和57年度)

モーリス・ユトリロ《モンルージュの通り(セーヌ)》

画家スュザンヌ・ヴァラドンを母にパリで生まれる。飲酒癖により入退院を繰り返しながら、生涯、パリの風景を描き続けた。絵筆を握ったのもアルコール依存症の治療目的であったが、やがてエコール・ド・パリを代表する画家となる。
特に白い建物に熱中した「白の時代」と呼ばれる時期の作品が高く評価され、本作もそのひとつ。パリ近郊の都市のありふれた街角が、強い遠近表現と粗い筆致により哀感を帯びた調子で描かれている。壁の質感表現に没頭するあまり、画家は絵具に漆喰や砂を混ぜることもあった。小路や裏通りに並ぶ寒々しくささくれた壁。それら無言の壁は取り立てて個性はないが、ひとたび画家の手にかかると生命を吹き込まれ、パリのエスプリに満ちて輝いている。

モーリス・ユトリロ 1883-1955 《モンルージュの通り(セーヌ)》 1910年頃 油彩・キャンバス 57.5×79.3cm 右下にMaurice Utrillo. V. 購入(昭和62年度)

マリー・ローランサン《三人の娘》

生粋のパリジェンヌで、「バラ色の乙女たち」と形容される繊細で抒情的な作品により人気を博したエコール・ド・パリの代表的な女性画家。磁器の絵付け師を目指して始まった絵画への道は、20世紀初頭、ピカソら当時の前衛画家たちとの出会いにより本格化するが、次第にその影響から独創的な画風を編み出し、同時にバレエの舞台装置や衣裳、文筆でも多彩な才能を発揮、1920年代を彩る才媛として活躍した。
鼻や眉のない面長の顔、瞳の大きいやや離れ気味の眼、小振りな唇といったローランサン独特の人物像は、その淡いパステル調の色彩や柔らかいタッチとあいまって、どこかセンチメンタルな甘美さを生み出している。

マリー・ローランサン 1883-1956 《三人の娘》 1943年 油彩・キャンバス 61.0×49.8cm 右上にMarie Laurencin 1943 受贈(昭和63年度、北海道に名画を贈る道民の会)

キスリング《オランダの娘》

ポーランドのクラクフ生まれ。1910年パリに出る。社交的な性格で文学者・画家らと広く交流したことから、後に「モンパルナスの帝王」と呼ばれた。キスリングは風景、裸婦、人物、花、静物など幅広い題材を作品で取り上げた。なかでも人物画の点数は抜きん出ている。多くの場合、若い女性の肖像で、この作品のように極端に省略された背景に腰から上の半身像が浮かび上がるように描かれている。
当初キスリングはキュビスムの影響を受けていたが、この作品が描かれた1920年代にはその影響を脱し、華やかな色彩と輪郭の明瞭な古典主義的なフォルム、そして陶磁器やビロードを思わせるような艶のあるマチエールによる独自のスタイルを生み出していった。

キスリング 1891-1953 《オランダの娘》 1928年 油彩・キャンバス 100.4×73.4cm 左下にKisling 購入(昭和57年度)

ハイム・スーチン《祈る男》

白ロシアの寒村スミロヴィチ(現・ベラルーシのスミラヴィチ)でユダヤ人家庭に生まれる。最初、母国の美術学校で学び、1912年頃パリに出た。貧しい生活のなかで制作を続けるが、やがて画商ズボロフスキーの援助により南仏各地に滞在、そこで独自の画風を確立した。スーチンは風景画や静物画、人物画を数多く残しているが、それらは画家の精神の大きな振幅を物語る表現主義的な作風によるものが多い。
1920-21年、〈祈る男〉と題された連作を制作、本作品はその一点である。モデルは南仏セレに住む男性ラシーヌで、作品の背景には、この連作に着手する年の1月に親友モディリアーニを亡くしたことがあるといわれている。荒々しい筆致からは、画家の激しい内面の慟哭が感じられる。

ハイム・スーチン 1893-1943 《祈る男》 1921頃 油彩・キャンバス 94.0×51.0cm 右下にSoutine 購入(昭和57年度)