ギャラリー
自画像
1921(大正10)
290×193mm
三岸が札幌第一中学校(現・札幌南高校)を卒業し、画家を志して上京する直前の1921(大正10)年、17歳の時に描かれた自画像である。
振り向きざまにこちらを睥睨(へいげい)する不敵な表情。画家として立とうとする青年三岸の強い気迫と自負が、墨による力強い描線であますところなくとらえられている。生涯を通じて数多くの人物像を描いた三岸だが、自画像はほとんど残していない。この作品は、画家としての出発点に際して自らの覚悟を確かめようとした三岸の精神の自画像であるといってもよいだろう。
檸檬持てる少女
1923(大正12)
527×453mm
春陽会第1回展
画家を目指していた三岸20才の作。
貧しさでキャンバスが買えず、この作品はボール紙に描かれた。三岸は、リアルな少女の肖像画を描くのではなく、色面を組み合わせて人物を描こうと試みている。当時の美術界に話題を呼んで誕生した美術団体、春陽会の第1回展に出品し入選。三岸が注目される契機となった。
道化役者
1932(昭和7)
2222×1672mm
独立美術協会第2回展
三岸の描く道化の多くが一人静かに物思う姿をとらえているのに対し、この作品では珍しく演技中の姿が描かれている。綱渡りで危うくバランスをとる道化は、半ば戯画化された大勢の観客の注目を一身に集めている。
乳首
1932(昭和7)
1066×497mm
独立美術協会第3回展
タイトルは、乳首だが、いわゆる裸婦像のイメージからは大きくかけ離れて、姿は、グロテスクでシュールだ。
乱雑なひっかき線も飛び交い、描く手法は、シュルレアリスムのオートマティスム(無意識に線をひいていく手法)を連想させる。このころ、三岸は、ヨーロッパの前衛的な表現を見て衝撃を受け、実験的な制作にのめり込んでいた。
花
1933(昭和8)
534×457mm
独立美術協会第3回展
白の上に黒を重ね、ひっかいて白い線を画面に見せている。ひっかき線の手法は、子どもたちとの遊びの中からヒントを得たともいわれる。感覚のおもむくままにひかれた渦巻状の線が、モノクロームのうちに華麗な花をつくりだしている。
兄及ビ彼ノ長女
1924(大正13)
660×510mm
1924年に美術団体、春陽会の展覧会に出品して一位(春陽会賞)を受賞した作品。当時の新聞で三岸は「米を配達する仕事しながら絵を勉強する人」と、大きく報道された。異父兄の小説家・子母澤寛とその長女がモデル。
飛ぶ蝶
1934(昭和9)
1212×856mm
色とりどりの蝶がピンで止められ、くっきりと影を落とす。右上の一匹がピンをはねのけて舞い上がる瞬間を描く。まるで蝶の標本箱のようだが、どの蝶も三岸の創作で、実在しない。
金属パイプの額縁は、三岸のオリジナルデザイン。
オーケストラ
1933(昭和8)
893×1146mm
独立美術協会第3回展
黒の上に白絵具を重ね、生乾きのうちに尖った道具でひっかいて、タクトを振り上げる指揮者、チェロの独奏者、さまざまな楽器を演奏する団員たちを描く。地の濃淡や躍動する線があいまって楽曲のクライマックスを想起させる。
少女の首
1932(昭和7)頃
457×338mm
独立展第5回展
三岸好太郎の描く女性像は、実に不思議な魅力をたたえている。それらの中には必ずしもモデルを前にしての制作ではないものもあり、またモデルがあった場合でも、モデルと似ていると評されることをむしろ三岸は好まなかったともいう。三岸が描きたかったのは、けっして外見の容貌を第一とするのではなく、女性から彼が感じ取った一種の情動のようなものであったかもしれない。
赤い服の少女
1932(昭和7)
653×530mm
三岸の友人の娘がモデルである。彼女にとって、三岸の顔は恐ろしげに見えたので当初モデルになることを拒んだという話が伝わっている。抜けていた三岸の歯を治療してくることを条件に、少女はようやくモデルを引き受けた。彼女の不安な表情はそのせいだろう。
のんびり貝
1934(昭和9)
509×1074mm
独立美術協会第4回展
砂地の上に長い影を落とす大きなシャコ貝が描かれている。陽が傾いた砂浜の静寂の中、ゆったりと流れる時間を思わせると同時にどこか虚無感を漂わせる。この作品が売れた収入で、三岸は節子夫人を伴い「貝殻旅行」と称して京都や奈良へ、生涯最後の旅に出かけている。