北海道立三岸好太郎美術館

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三岸好太郎について

夭折のモダニスト・三岸好太郎の生涯(1903~1934)

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大正から昭和初期―
近代日本洋画の青春期を駆け抜けたひとりの画家。
その繊細な詩情に満ちた作品は、今も新鮮な感動をあたえてくれます。

道産子・三岸好太郎

1903(明治36)年、札幌に生まれた三岸好太郎は、1921(大正10)年、札幌一中(現・札幌南高)を卒業して画家をめざし上京、苦労を重ねながら独学で絵の勉強を続けました。

画壇へのデビュー

1923(大正12)年、春陽会の第1回展に、厳選を通って《檸檬持てる少女》が入選します。翌年の第2回展では《兄及ビ彼ノ長女》など4点で春陽会賞を首席受賞し、画壇の注目をあつめました。素朴な情感の漂う人物画、風景画などに独特の感性をにじませながら、さらに画業を進めていきます。

中国旅行と作風模索

1926(大正15)年、三岸は中国を旅行します。この頃彼は制作の新たな方向を模索しており、当時画壇の一傾向であった日本画風の表現なども試みています。中国での見聞は、やがて三岸の作風の展開に転機をもたらすもののひとつとなります。

道化の誕生

1929(昭和4)年、三岸は道化をモチーフとした作品を発表します。その特異な主題と表現は、彼の新しい境地を示すものとなり、その後1932(昭和7)年にかけ、どこか憂愁を感じさせる道化やマリオネットなど一連の作品が制作されていきます。

独立美術協会への参加

1930(昭和5)年、新しい美術団体・独立美術協会の結成に三岸は最年少の創立会員として参加します。この頃より彼の作風は奔放さを増し、道化の主題をはじめ、女性像、風景、静物など、多彩な制作が意欲的に続けられます。

前衛画風への転換

1932(昭和7)年末から翌年にかけ、三岸は大きく作風を転換させます。《オーケストラ》をはじめとするひっかき線による作品や抽象作品、コラージュ(貼り絵)など、さまざまな前衛的な手法を試み、斬新な魅力あふれる表現が生まれています。

蝶と貝殻

1934(昭和9)年、三岸の作風はまたも大きく変貌します。蝶や貝殻がモチーフとなり、夢幻的な光景が描かれます。また、手彩色の『筆彩素描集・蝶と貝殻』を刊行、「蝶ト貝殻(視覚詩)」という詩も創作しています。

アトリエと死

「私は建築家になるべきでしたね。建築は絵画なんかより先進的です。」と語るほど建築にも関心を持った三岸は、亡くなる年の1934(昭和9)年、斬新な構想を盛り込んだ新しいアトリエの建築を計画します。しかし、そのアトリエの完成を見ることなく、同年7月、旅先の名古屋で客死し、31歳の短い生涯を終えます。

三岸好太郎 年譜

本年譜は、「三岸好太郎展」図録(神奈川県立近代美術館1985年)所蔵年譜(寺嶋弘道編)、「三岸好太郎 昭和洋画史への序章」(匠秀夫著1992年)所蔵年譜、「三岸好太郎展覧会記録」(「北海道立三岸好太郎美術館所蔵品目録」1993年)を主に参考に、若干の訂正と補足を行って当館で作成した。

1903年(明治36年) 4月18日
北海道札幌区(現札幌市)南7条西4丁目に生まれる。
本籍地:北海道厚田郡厚田村大字厚田村16番地。
父:橘巌松、母:三岸イシ、異父兄:梅谷松太郎(小説家 子母澤寛)、妹:千代。
祖父梅谷十次郎が父母の結婚を許さなかったため、三岸家の戸主である母の姓を名乗る。
1909年(明治42年)6歳 4月
札幌区立西創成尋常高等小学校に満5歳で入学。
1911年(明治44年) 8歳 4月
同区南5条西2丁目に転居し、札幌区立豊水尋常高等小学校に転校。
1912年(明治45年・大正元年) 9歳 4月
同区北7条西5丁目に転居し、札幌区立北九条尋常高等小学校に転校。
1915年(大正4年) 12歳 4月
北海道庁立札幌第一中学校(現・札幌南高等学校)に入学。
1916年(大正5年) 13歳
父巖松49歳で死亡。住込奉公の母イシの仕送りを受けて、一時兄梅谷宅、ついで北7条西8丁目の塩野谷平蔵宅に下宿生活をしながら通学する。
1918年(大正7年) 15歳 北17条西5丁目の田名菊次郎方に下宿をかわる。
油絵に興味を抱き、中学の美術クラブ霞会に属し、図画教師林竹治郎の指導を受ける。
1919年(大正8年) 16歳 3月
学業不振のため落第。

10月
霞会例会(4日 札幌第一中学)に出品。
霞画会展(19日 札幌第一中学)に〈秋はさびしい〉を出品。

11月
俣野第四郎、戸村真次郎ら一中生とアネモネ画会をつくり学外で展覧会(22~23日 札幌・ローリー館)を開催。
1920年(大正9年) 17歳 2月
霞会例会(4日 札幌第一中学)に〈雪景色〉〈肖像〉を出品。

6月
修学旅行中喫煙が見つかり停学処分を受ける。

10月
開校25周年記念霞会展に〈教会堂〉〈山〉〈母に捧ぐ〉〈日向(ママ)葵〉〈風の日〉〈静物〉を出品。

11月
札幌で初の公募展として開催された北斗雅会美術展(1~4日 札幌・今井呉服店)に〈ジュピターの幸福〉〈不満〉が入選。
1921年(大正10年) 18歳 3月
札幌第一中学卒業。東京美術学校建築科(図案科第二部)に入学の親友俣野第四郎と上京する。
白樺美術館第1回展(5~13日 京橋・星製薬画廊)でセザンヌ、ゴッホをはじめて見て驚嘆する。
雑司ヶ谷の俣野第三郎(第四郎の兄)方、北千住中組46番地の兄梅谷松太郎方、北豊島郡巣鴨1142番地の日本画家大野麦風方、西巣鴨向原3476番地の八代忠方ほかに下宿し、新聞配達、夜なきそば売り、大野麦風の書生などをヘて、下谷郵便局の臨時雇いになる。
1922年(大正11年) 19歳 5月
仏蘭西現代美術展(築地・農商務陳列館)でアンリ・ルソーの作品に感銘を受ける。

6月
第3回中央美術社展(11~18日 日本橋・三越呉服店)に〈静物〉が入選。

9月
第9回二科展に出品するが落選。

11月
1920年社第2回展(22~25日 神田・流逸荘)に〈玉葱静物〉〈板橋風景〉を出品。
この頃、吉田節子と知りあう。
1923年(大正12年) 20歳 5月
春陽会第1回展(4~27日 上野・竹之台陳列館/6月17~27日 大阪・商品陳列所)に〈檸檬持てる少女〉が入選。

7月
俣野第四郎、小林喜一郎と札幌へ帰り、「三岸好太郎・俣野第四郎・小林喜一郎油絵展覧会」(22~24日 札幌・民衆会館/28~29日 小樽・船見屋百貨店)を開催、〈初冬板橋〉〈籾工場風景〉〈砲術学校〉〈築地舟見橋〉〈郊外の川べり〉〈橋畔風景〉〈静物〈枇杷)〉〈目白台風景〉〈少女像〉〈雨後春景〉〈郊外初夏〉〈玉葱静物〉〈景色〉〈レモン静物〉〈小学校風景〉〈レモン持てる少女〉〈札幌風景〉〈札幌農大校庭〉〈静物〉〈札幌風景〉を出品。

8月
帰京。西巣鴨宮仲2278番地の南大路家の離れに引っ越す。母と妹が上京して同居。一時、鬼塚金華、小林喜一郎も同居していた。家庭購売組合に職を得る。

11月
日本美術展(20~12月15日 京都・岡崎公園第二勧業館/翌年2月1~20日 上野・日本美術協会)に〈築地風景〉を出品。
1924年(大正13年) 21歳 3月
春陽会第2回展(14~23日 日本橋・三越呉服店/4月1~10日 京都・商業会議所/4月19~29日 大阪毎日新聞社)に〈兄及ビ彼ノ長女〉〈春ノ野辺〉〈友人ノ肖像〉〈崖ノ風景〉が入選し、春陽会賞を首席で受賞。

7月
春陽会の出品仲間(横堀角次郎・斎藤清二郎・倉田三郎・川端信一・土屋義郎)と麓人社を結成。

8月
麓人社第1回展(1~10日 京橋・村田画房)に〈肖像〉〈少女〉〈少女と犬〉〈風景(一)〉〈風景(二)〉を出品。

9月
吉田節子と所帯をもち、巣鴨染井墓地のそばの下宿の2階を借りて生活を始める(届出は翌年4月)。

11月
札幌から上京した中学の先輩山田正と高田町に家をかりる。
1925年(大正14年) 22歳
節子夫人の実家(愛知県起町)に滞在する。

1月
長女陽子が生まれる。(戸籍では3月)

3月
春陽会第3回展(6~29日 上野・竹之台陳列館/4月12~18日 名古屋・商品陳列所/5月16~29日 大阪・白木屋呉服店)に〈少女の像〉〈冬の崖〉〈少年〉〈美しき少女〉〈裸体〉が入選。

4月
麓人社第2回展(1~6日 日本橋・丸善)に〈戦友肖像〉〈軍楽手三人〉〈笹藪〉〈軍楽手〉を出品。

5月
節子夫人の実家(愛知県起町)に滞在する。

6月
板橋町中丸に引っ越す。

8月
丹羽秀雄と札幌に帰り、「丹羽秀雄・吉田節子・三岸好太郎展覧会」(8~10日 札幌・商業会議所)を開催し、〈兄及ビ彼ノ長女〉〈少年〉〈男ノ像〉〈森ノ中(一)〉〈森ノ中(二)〉〈裸体〉〈椿之図〉〈崖〉〈郊外ノ景色〉〈犬ト少女〉〈黄色ノ洋服〉〈春ノ幸福〉〈風景〉〈馬ト少女〉〈麦畑〉〈狐松之図〉〈童児煎茶之図〉〈椿〉〈枇杷之図〉〈木芙蓉〉〈二奸〉〈二果竟色〉〈札幌風景〉を出品。

9月
中丸の前住所のやや奥手に引っ越す。

10月
北海道美術協会の特別会員となり、第1回道展(5~18日 札幌・農業館)に〈初秋風景〉を出品。
1926年(大正15年・昭和元年) 23歳 2月
春陽会第4回展(26~3月20日 上野・竹之台陳列館/4月2~8日 名古屋・松坂屋/5月1~10日 大阪・高島屋)に〈竹藪〉〈宇治風景〉が入選。

3月
春陽会無鑑査に推薦される。

5月
東京府美術館開館記念第1回聖徳太子奉讃美術展覧会(1~6月10日 東京府美術館/6月25~7月21日 大阪・商品陳列所)に〈安孫子風景〉〈春暖〉を出品。

9月
同郷の画友岡田七蔵と中国旅行。上海、杭州、蘇州などを訪れる(12月に帰国)。
1927年(昭和2年) 24歳
西巣鴨町大字巣鴨2280番地の借家に移転。母、妹とともに住む。

4月
結核のため療養中の沼津で死去した親友俣野第四郎の「故俣野第四郎遺作展覧会」(30~5月2日 上野広小路・孚水画房/9月10日~11日 札幌・商工会議所)を東京と札幌で開催。
春陽会第5回展(22~5月15日 東京府美術館/5月21~30日 大阪・白木屋呉服店/6月9~13日 名古屋・松坂屋)に〈水瓜〉〈支那の少女〉〈蘇州の風景〉〈ゆき〉〈なすび〉を出品。


節子夫人とともに岐阜で過ごす。

9月
麓人社第3回展(15~19日 日本橋・丸善/10月1~7日 大阪・丸善)に〈南瓜と茄子〉〈支那の少女〉〈杭州西湖〉〈蘇州〉などを出品。黒百合会第21回展(22~26日 札幌・今井呉服店)に〈中野氏令嬢〉を賛助出品。

晩秋
岐阜に行く。

年末
節子夫人と信濃大町の俣野第三郎を訪ね、帰京。
1928年(昭和3年) 25歳 3月
次女杏子が生まれる。

4月
春陽会第6回展(28~5月14日 東京府美術館/5月25日~6月3日 大阪・白木屋呉服店)に〈蘇州城外〉〈冬〉〈少女〉〈茶畑〉〈陽春〉を出品。

初夏
鳥海青児、森田勝、節子夫人と札幌に帰り、北8条西4丁目の大森滋宅の隣家に秋まで滞在。

10月
「三岸好太郎・鳥海青児・吉田節子展覧会」(12~14日 札幌・今井呉服店)を開催。〈花〉〈ダリヤ〉〈植物園(A)〉〈ポプラ〉〈大沼風景〉〈果樹園(A)〉〈果樹園(B)〉〈花畑〉〈故河合氏肖像〉〈H博士肖像〉〈K博士肖像〉〈曇日〉〈果物〉〈札幌風景(A)〉〈札幌風景(B)〉〈植物園(B)〉〈藻岩山〉〈裸婦(A)〉〈裸婦(B)〉〈道〉〈風景〉〈風景〉〈秋〉計23点を出品。

11月
麓人社第4回展(1~8日 日本橋・三越)に〈道のある風景〉〈エルム樹〉〈道〉〈葡萄〉〈花〉〈花〉などを出品。
黒百合会第22回展(28~30日 札幌・今井呉服店)に〈家(A)〉〈家(B)〉を賛助出品。
1929年(昭和4年) 26歳 4月
春陽会第7回展(27~5月19日 東京府美術館/6月12~21日 大阪・白木屋呉服店)に〈風景〉〈港の風景〉〈面の男〉〈少年道化〉を出品。

5月
東京中野区鷺宮5丁目407番地にアトリエ付の住宅を建てる。麓人社素描展(11~17日 新宿・紀伊国屋書店)に〈夜の婦人〉〈雨上がり(A)〉〈子供〉〈港〉〈庭〉〈少年道化〉〈裸体(B)〉などを出品。国際美術協会第1回内国各派大綜合展(25~6月16日 東京府美術館)に〈赤い花〉〈道化〉などを出品。

7月
太地社第5回展(27~8月4日 小樽公会堂)に〈小樽小景〉〈お面の男〉〈夕暮〉〈少年道化〉〈港の午後〉を出品。
1930年(昭和5年) 27歳 3月
子母澤寛著『笹川の繁蔵』、本田一郎著『仕立屋銀次』が、三岸の装幀・挿絵により塩川書房より刊行。
第2回聖徳太子奉讃美術展覧会(17~4月14日 東京府美術館)に〈青目の少女〉を出品。

4月
春陽会第8回展(23~5月14日 東京府美術館/6月19~29日 大阪・白木屋呉服店)に〈マリオネット〉〈黄服少女〉〈読書少女〉〈道化面〉〈道化面〉を出品。

8月
雑誌「セレクト」に散文詩「上海の絵本」を発表する。

9月
長男黄太郎生まれる。

11月
独立美術協会の創立に加わり、最年少の会員となる。

12月
独立美術協会結成記念講演会で「芸術の特異性」の演題で講演(7日 東京・報知新聞社講堂)。
1931年(昭和6年) 28歳 1月
独立美術協会第1回展(11~31日 東京府美術館/2月15~28日 大阪・朝日会館/4月28~5月6日 福岡日日新聞社/京都、名古屋、台北等でも開催)に〈緑衣少女〉〈紅衣少女〉〈マリオネット〉〈ポプラの風景〉〈セロイスト〉〈道化と馬〉〈馬に乗る道化〉〈少女〉〈レビューの男〉〈赤い道化〉を出品。

2月
独立美術協会大阪展に際し「芸術の特異性」の演題で講演(14日 大阪・朝日会館)。以後、しばしば独立美術地方展で名古屋、京都、大阪等に行き、講演も行う。

8月
独立美術協会夏季講習会の講師をつとめる(3~12日 新宿・紀伊国屋書店学堂)。

9月
独立美術協会秋季展(19~29日 東京・朝日新聞社)に〈黄い服〉〈少女〉〈横顔〉〈猫〉〈道化〉〈ニコライ〉を出品。第7回道展(26~10月14日 札幌・農業館)に〈馬に乗るピエロ〉を出品。
1932年(昭和7年) 29歳 3月
独立美術協会第2回展(19~4月14日 東京府美術館/4月21~25日 名古屋・鶴舞公園美術館/5月5~15日 大阪・朝日会館/5月28~6月8日 福井・城町アルト会館/福岡、熊本、長崎、台北でも開催)に〈白馬と道化〉〈青年道化〉〈裸婦B〉〈悪魔〉〈青年〉〈裸婦A〉〈女の顔〉〈道化役者〉〈男二人〉〈白百合〉を出品。

4月
独立美術協会講演会で講演(1日 銀座・読売新聞社講堂)。

5月
丘人社洋画展(29日 新潟・柏崎町役場)に〈黄服少女〉を出品。

8月
札幌に帰る。

9月
北海道美術協会後援の美術講演会で「新興芸術運動」の演題で講演(9日 札幌・今井記念館)
個展(10~12日 札幌・豊平館)開催。〈白百合とバラ〉〈裸婦〉〈花〉〈花ト蝶〉〈花ト少女〉〈読書少女〉〈金連花A〉〈ニコライ堂風景〉〈白馬〉〈金連花B〉〈サルビヤ〉〈少年道化〉〈道化〉〈森〉〈冬の風景〉〈南部の跳躍〉〈札幌風景〉〈風景〉〈花〉〈静物〉計20点出品。
第8回道展(17~10月4日 札幌・農業館)に〈大通公園〉〈植物園〉を出品。NHK(札幌放送局)のラジオ趣味講座で「画家の見た女性」を放送(23日)。

10月
独立美術協会秋季展(2~9日 東京・朝日新聞社)に友人本間紹夫の工房で試みた自製石版画〈女の顔〉〈道化〉〈少女〉を出品。
同郷のオリンピック三段跳び優勝者南部忠平を讃える〈南部の跳躍〉を制作し、札幌市に寄贈。レートン作品展(29~11月1日 札幌・今井呉服店)に〈少女〉を賛助出品。

11月
函館湯ノ川温泉に遊び帰京(1日)。

12月
フランス前衛絵画の動向を紹介した「巴里・東京新興美術展」(6~20日 東京府美術館)を見て大きな刺激を受ける。
1933年(昭和8年) 30歳 1月
綜合美術展覧会(16~27日 上野・松坂屋)に〈海〉を出品。「独立美術4」(三岸好太郎特集、建設社)刊行。

3月
NHK(東京放送局)ラジオ趣味講座で「前衛絵画について-絵画と社会性」を放送。
独立美術協会第3回展(10~31日 東京府美術館/4月13~19日 名古屋・鶴舞公園美術館/4月25~5月5日 大阪・朝日会館/5月8日~14日 京都・大丸呉服店/5月19~23日 福岡日日新聞社/台北でも開催)に〈乳首〉〈花〉〈新交響楽団〉〈ダイナミーク〉〈オーケストラ〉を出品。

6月
北海道新興工芸美術連盟主催の第1回試作展(1~7日 札幌・三越)に節子夫人と共作の状差し〈豚小屋〉ほか30点を出品。
小山昇、植木茂ら北海道出身の独立展出品作家10名による北海道独立美術作家協会の結成に指導者的立場で参画。

7月
北海道独立美術作家協会第1回展(1~7日 札幌・三越)に〈金魚〉〈見物客〉を賛助出品。
結成記念講演会で「絵画的視覚に於ける近代層」の演題で講演(1日 札幌・今井記念館)。

8月
自宅を申込所として独立美術協会夏季講習会(1~10日 神宮外苑日本青年会館)の講師をつとめる。

9月
独立美術協会素描展(19~23日 大阪・美術新論社画廊)に出品。名古屋、大阪、神戸、道後温泉に遊ぶ。

10月
独立美術協会秋季展(16~22日 上野・松坂屋/11月13~17日 大阪・朝日ビル)に〈構図〉〈少年〉〈コンポジション〉を出品。

11月
第2回丘人社洋画展(5日 新潟・柏崎町役場)に〈花〉〈コンポゼション〉を出品。
1934年(昭和9年) 31歳 2月
個展(17、18日 愛知県津島町・まのや旅館)を開催。

3月
独立会員油絵素描小作品(20~26日 銀座・日動画廊)に出品。
独立美術協会第4回展(20~4月12日 東京府美術館/4月20~27日 名古屋・鶴舞公園美術館/5月9~13日 広島・県産業奨励館/5月17~26日 大阪・朝日会館/京都でも開催)に〈旅愁〉〈ビロードと蝶〉〈飛ぶ蝶〉〈海洋を渡る蝶〉〈海と射光〉〈貝殻〉〈のんびり貝〉を出品。凸版印刷素描10点を収めた筆彩素描集「蝶と貝殻」(限定100部)刊行。新しいアトリエの建築を思いたち、友人の建築家山脇巌に設計を依頼する。

4月
建設資金調達のため関西に赴く。

5月
独立美術協会広島展に際し「前衛絵画」の演題で講演(5日 広島・県教育会館)。
独立美術協会大阪展に際し「美術における新生命」の演題で講演(19日 大阪・朝日新聞社)。

6月
独立美術協会会員小作品展(1~7日 大阪・阪急百貨点)に出品。
「貝殻旅行」と称して節子夫人と京都、奈良、大阪に遊ぶ。帰路名古屋に立ち寄り、節子夫人は帰京。
北海道独立美術作家協会第2回展(26~29日 札幌・三越)に〈ビロードと蝶〉を出品。
28日、名古屋の銭屋旅館(名古屋市西区御幸本町7丁目1番地)で胃潰瘍の吐血でたおれる。

7月
1日、心臓発作を併発して午後11時死去。友人の医者青井東平によってデスマスクがとられ、その後、名古屋で荼毘にふされ、遺骨は東京に運ばれた。鷺宮で独立美術協会会葬。

9月
第10回道展(14~30日 札幌・農業館)に遺作陳列。〈赤い服の子供〉〈馬に乗る道化〉〈椿〉出品。

10月
アトリエ竣工。

11月
「故三岸好太郎作品遺作展覧会」(1~10日 鷺宮・アトリエ)開催。〈乳首〉〈コンポジション〉ほか出品
1935年(昭和10年) 1月
三岸好太郎遺作展(名古屋・丸善)開催。

3月
独立美術協会第5回展(6~25日 東京府美術館他)に遺作陳列。
三岸好太郎画伯遺作回顧展(15~18日 銀座・日動画廊)開催。
1950年(昭和25年) 3月
三岸好太郎遺作展(7~13日 東京日本橋・北荘画廊)開催。
1955年(昭和30年) 11月
三岸好太郎遺作展(15~20日 札幌・丸井今井百貨店)開催。
1965年(昭和40年) 4月
三岸好太郎展(3~5月16日 神奈川県立近代美術館)開催。

6月
三岸好太郎展(3~27日 北九州市八幡美術館)開催。

7月
三岸好太郎回顧展(16~8月15日 北海道拓殖銀行札幌南支店ビル)開催。
1967年(昭和42年) 9月
節子夫人ら遺族4名により三岸好太郎の遺作220点が北海道に寄贈され北海道立美術館(三岸好太郎記念室)が開館。
1972年(昭和47年) 5月
三岸好太郎展(26~6月13日 新宿・小田急百貨店)開催。
1977年(昭和52年) 6月
北海道立美術館を北海道立三岸好太郎美術館と改称。
1978年(昭和53年) 8月
三岸好太郎展(11~27日 岡崎市美術館)開催
1983年(昭和58年) 4月
三岸好太郎展(16~5月15日 宮城県美術館)開催。

7月
北海道立三岸好太郎美術館が新築移転し、新たに開館。
1985年(昭和60年) 3月
没後50周年記念三岸好太郎展(2~28日 神奈川県立近代美術館)開催。
1992年(平成4年) 6~12月
三岸好太郎と三岸節子展(6月27日~8月6日 北海道立三岸好太郎美術館ほか)開催。
2003年(平成15年) 4~10月
生誕100年記念三岸好太郎展開催
(4月18日~5月25日 北海道立近代美術館・北海道立三岸好太郎美術館、5月31日~6月29日 下関市立美術館、7月5日~8月24日 府中市美術館、8月30日~10月19日 名古屋市美術館)
2013年(平成25年) 9月~2014年1月
生誕110年三岸好太郎展開催
(9月14日~11月17日 北海道立三岸好太郎美術館、11月23日~2014年1月19日 北海道立函館美術館)
2021年(令和3年)

6月~2022年4月
貝殻旅行ー三岸好太郎・節子展ー開催
(6月26日~9月1日 北海道立三岸好太郎美術館、9月11日~11月7日 砺波市美術館、11月20日~2022年2月13日 神戸市立小磯記念美術館、2022年2月19日~4月10日 一宮市三岸節子記念美術館)

 

アトリエと美術館

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三岸好太郎は建築にも強い関心を示し、モダンなアトリエを構想します。そこには大きなガラス面、寄せ木の床、グレーの壁、自作を見下ろすことができるような吹抜けに配したらせん階段、天井に水のゆらめきを投影する池といった、彼の多くのアイデアが盛り込まれました。その構想を具体化する設計は、ドイツのバウハウスに学んだ建築家・山脇巌が担当し、1934(昭和9)年春に着工したものの、三岸は完成を見ることなく没します。建設は節子夫人に引き継がれ、同年10月に完成、翌月には三岸の遺作展の会場となりました。

現在の三岸好太郎美術館の建物は、喫茶コーナーの大きなガラス窓、2階部分の寄せ木の床、グレーの壁、また2階から1階のほとんどの作品を見下ろせるようにするなど、このアトリエのイメージを随所に取り入れています。三岸作品をその鑑賞にもっともふさわしい空間の中で楽しむことができるような配慮がなされています(設計:岡田新一)。実は喫茶コーナーの隣に、水を張った部分もあります(冬季を除く)。お天気の良い日には、この水に反射した光のゆらめきが天井などにみられることもあります。

好太郎の残したアトリエは、その後周囲の環境・建物細部とも変化しますが、いまも東京中野区に現存し、2014年には国の登録有形文化財となりました。

三岸好太郎アトリエ(外部リンク/文化遺産データベース)

現在、そのアトリエは地域のイベントや文化活動を行う「三岸アトリエ/アトリエM」として活用・運営されています。

「三岸アトリエ」について(外部リンク)