Exhibition
展覧会
所蔵品展「モダニストの『蝶』 詩人・安西冬衛と好太郎」
モダニストの「蝶」 詩人・安西冬衛と好太郎
蝶の群れが海を渡り、貝殻は砂に横たわる。「蝶と貝殻」の連作は、画家・三岸好太郎(1903-1934)がその早すぎる晩年に到達した、白日夢のようなイメージの世界です。
同時代の詩壇では、安西冬衛(1898-1965)が三岸に先駆けて、短詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」を発表(詩集『軍艦茉莉』 1929年)。茫漠とした海に蝶の孤影を浮かび上がらせるこの一行詩は、日本のモダニズム詩を代表する作品として今日まで評価されています。
ふたりは生前会うことはありませんでしたが、冬衛が活躍した『詩と詩論』(1928-1931)の同人に、好太郎の友人・外山卯三郎がおり、好太郎は同誌を通じて冬衛の詩に接していたと思われます。一方、冬衛は1935(昭和10)年の独立展で好太郎の遺作を実見して高く評価。戦後、焼け跡の都市風景に好太郎の《オーケストラ》のイメージを重ねるなど、後年まで、好太郎に言及しています。
本展は、昭和初期にモダニズムの旗手として注目を集めた画家と詩人の芸術を、「蝶」を共通項として紹介するものです。ふたりの芸術家のみずみずしい感性の響きあいをご覧下さい。
2024年4月27日(土)~7月4日(木)
休館日:月曜日(ただし4月29日、5月6日は開館)、4月30日(火)、5月7日(火)
開館時間:午前9時30分~午後5時(入場は午後4時30分まで)
同時代の詩壇では、安西冬衛(1898-1965)が三岸に先駆けて、短詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」を発表(詩集『軍艦茉莉』 1929年)。茫漠とした海に蝶の孤影を浮かび上がらせるこの一行詩は、日本のモダニズム詩を代表する作品として今日まで評価されています。
ふたりは生前会うことはありませんでしたが、冬衛が活躍した『詩と詩論』(1928-1931)の同人に、好太郎の友人・外山卯三郎がおり、好太郎は同誌を通じて冬衛の詩に接していたと思われます。一方、冬衛は1935(昭和10)年の独立展で好太郎の遺作を実見して高く評価。戦後、焼け跡の都市風景に好太郎の《オーケストラ》のイメージを重ねるなど、後年まで、好太郎に言及しています。
本展は、昭和初期にモダニズムの旗手として注目を集めた画家と詩人の芸術を、「蝶」を共通項として紹介するものです。ふたりの芸術家のみずみずしい感性の響きあいをご覧下さい。
2024年4月27日(土)~7月4日(木)
休館日:月曜日(ただし4月29日、5月6日は開館)、4月30日(火)、5月7日(火)
開館時間:午前9時30分~午後5時(入場は午後4時30分まで)
会期 2024.04.27(土) - 2024.07.04(木)
観覧料
観覧料:一般510(420)円、高大生250(170)円、中学生以下、65歳以上無料
*( )内は10名以上の団体料金
*高校生は毎週土曜日、5月5日こどもの日ならびに学校の教育活動による観覧は無料
*身体障害者手帳や療育手帳、精神障害者保健福祉手帳をお持ちの方(ミライロID利用可)およびその介護者(1名)などは無料
*ただし7月2日(火)は開館記念日によりすべての方が無料
併催 好太郎が描く男たち(展示室4~7)
多彩な女性像で知られる三岸好太郎ですが、男性像もまた奥深い味わいをたたえています。油彩、水彩・素描によりご覧下さい。
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《飛ぶ蝶》1934(昭和9)年 詩人・安西冬衛(1898-1965)は、好太郎に先駆けて、ピンで留められた蝶のイメージを表現しました。「私は蝶をピンで壁に留めました―もう動けない。幸福もこのやうに。」(安西冬衛「再び誕生日」より 詩集『軍艦茉莉』1929年 初出:詩誌『亜』33号、1927年)。この詩の発表のころ、大連在住の冬衛は、堺市在住の従妹・藤井美佐保と文通を重ねていました(1928年結婚)。はるかな大海原をへだてた地に住む少女への思慕が、蝶をピンで留める、というイメージとして表現されたのでしょうか。
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《筆彩素描集『蝶と貝殻』 海洋を渡る蝶》1934(昭和9)年 好太郎は1934(昭和9)年7月に旅先の名古屋で急逝。冬衛は同年4月に大連を離れ堺に帰郷。ついにふたりは生前、相まみえることはありませんでした。しかし翌年、冬衛は第5回独立展を訪れ、好太郎の作品と対面します。「独立展に三岸好太郎の遺作、『海洋を渡る蝶』を観る。博愛なる海洋。これだけの美事な仕事を惜しげもなく抛って就いたのである。死といふものは悪くないに相違ない。」(安西冬衛「博愛なる海洋」1935年)詩人はこのように賛辞を捧げ、好太郎の早世を悼みました。
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《オーケストラ》1934(昭和9)年 帰郷後、冬衛は堺市に奉職。戦中は多くの文学者と同様に大政翼賛の波の中、戦争賛美詩も書きました。戦後、堺の都市風景は空襲により無残な姿を見せていました。「けさも登衙の途中、電車の上から汚れたガラス越しに、朝日のさしてゐる骨だらけになった変電所のある構図に心を動かされ、不図三岸好太郎の「オーケストラ」を美しく連想。」(安西冬衛「春山さんへの手紙」『櫻の實』1946年)戦争による芸術的挫折を経て、再び立ち上がろうとしていた冬衛の心に浮かんだのが、好太郎の《オーケストラ》でした。
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《女の顔(絶筆)》1934(昭和9)年 冬衛は1949(昭和24)年、戦後初の回顧展「三岸好太郎遺作展」(北荘画廊、東京)を訪れ、三岸節子と対面。戦中戦後、ひとりで三人の子どもを育てながら、女流画家としてのキャリアを築いてきた節子に、次のような言葉を捧げました。「黄紬の着衣。えんじ一本どっこの帯。彼女のきびしい姿勢は、その衣装と意匠のうえに象わされていた。(中略)『生きた。描いた。愛した。』と三岸さんが書いた。卅二歳(さんじゅうにさい、ママ)で亡くなった三岸好太郎は、私が傾倒して止まない秀抜な作家だが三岸さんがこの希代の精神とともに『生き、描き、愛してきた』ことは三岸節子の激しく今日に存る所以だと思う。」(「東京人物採集」『夕刊新大阪』1949年6月21日)